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Morikatron AI Lab · 游戏 AI· 来源· 高橋ミレイ·· 19 天前AI 评分36

基于西田哲学的新人工智能可能性:《面向人工智能的哲学塾 神经哲学篇》第四夜报告

西田哲学による、新たな人工知能の可能性:「人工知能のための哲学塾 ニューロフィロソフィ篇」第四夜レポート

正文 · 原文

ゲームAI開発者の三宅陽一郎氏が哲学の枠組みから人工知能を語る連続セミナー「人工知能のための哲学塾 第五期 精神分析と人工知能」。去る6月1日に開催された第四夜は「西田幾多郎と場の哲学」と題して、西田幾多郎の「場の哲学」をベースにした人工知能開発のアプローチを探索しました。

第四夜「西田幾多郎と場の哲学」講演資料
https://files.speakerdeck.com/presentations/3ab3edb3069449f6a0dd196c03b0c7e4/Neuro_Philosophy_2026_6_1_4th_YMiyake_public.pdf

人工知能と西田哲学をつなぐ

前半は三宅氏による講義です。三宅氏は西田幾多郎を取り上げる理由として、人工知能とは真逆の立場を取る西田哲学から人工知能を眺めると何か新しいことが見えてくるはずだと述べました。

我々にとって「在ること」が当たり前な、世界、物、身体、判断、意識、時間、経験といったすべてを、西田幾多郎はそういうものはないかもしれないよと言います。では、何があるのか? 西田がすべての根源とするのは「純粋経験」です。では、人工知能にも純粋経験が必要なのではないか? 純粋経験を組み込むことで、人工知能は本当の知性を持つことができるのではないか? 人工知能を研究する立場からこの問いを探索していきます。

1.西田哲学の立場

西田幾多郎(1870 – 1945)は「物質の世界という如きものは考えられたものにすぎない」と言います。つまり、そういうものは本当は実在するものではないという極端な立場を取ります。そのため、西田は非常に独創的な哲学者というイメージがありますが、哲学の専門家としてつぶさにドイツ哲学を学び、フランス哲学をも吸収しながら自分の哲学を打ち立てました。

時間と空間が世の中を捉える原理であり、それを自然科学として応用するのは我々にとって当たり前のことですが、我々の内面、人間というものを考えるときに時間と空間というフレームは本当に正しいのだろうかという問いが1900年頃から現れます。

その問いに応えようと生まれた哲学のひとつが現象学です。2015年に開催した『人工知能のための哲学塾』の西洋哲学編でも第壱夜でフッサールを扱いました。あるいはベルクソン、東洋哲学編では西田哲学も扱いました。西田は、簡単に言うと時間も空間もないと言います。では、何があるかと言うと「純粋経験」です。デカルト所以の主と客、時間と空間、自分があって世界があるというような捉え方は一旦置いておこうというわけです。

世界に何が存在するか

今回取り上げる『善の研究』(岩波文庫)は西田の最初の本で、彼の出発点と言えます。非常にシンプルで、こう言ってしまうと怒られるかもしれませんが未完成な印象があります。そのため、一般的にはわかりにくいという側面もあります。

純粋経験とは、何か知識を解釈するということではなく、もともと人間が素で受け取っているこの世界そのもののことです。例えば、「この椅子は鉄からできているから硬い」とか、そういうことではなく、見たまま感じたまますべてを純粋経験として説明しよう、これが『善の研究』のコンセプトです。西田がある書簡の中で述べているのですが、『善の研究』というタイトルは出版社がつけた名前で、西田は『純粋経験と実在』として執筆していました。つまり、純粋経験による人間の統一理論です。純粋経験と実在を出発点として、言葉を選ばずに言うと試論を展開していると言えます。

しかし、そもそも「なぜ純粋経験からすべてを説明しようとするのか」。やはり、これはそれまでとは違う哲学を打ち立てたいという思いがあったのだろうと考えられます。また、有り体に言うと、従来の科学に対する批判、カウンターでもあります。つまり、時間と経験、時間と空間は純粋経験が生み出すものであって、そこから出発するものではない、科学はちょっと勘違いしているのではないか、というような直観が西田の中にまずあったのです。西田は高校生の頃からそんなことを考え続けてきて、それを結実させたのがこの本だということです。

「純粋経験が実在するものであって、それ以外はそこからすべてが生み出される」、これは一見エキセントリックに見えます。しかし、そうでもしないと乗り越えられない哲学的課題があったわけです。この哲学的課題は現代にも引き継がれていますが、科学的なフレームワークでは人間の内面を探求できないという危機感が、19世紀から20世紀初頭にかけて、非常に強かったのです。カント(1724 – 1804)の哲学を引き継いだフィヒテ(1762 – 1814)も、自分自身を生み出す行為とその結果が実はひとつであるという立場を採りました。西田はフィヒテの思想を継いでいるというところもあります。また、20世紀のベルクソン(1859 – 1941)にも影響を受け、そうした多様な哲学の中から純粋経験が出てきたわけです。

2.純粋経験から人間を探求する

純粋経験というところから出発すると、主観と客観、精神と物質、自我と自然という本来矛盾すると我々が思っているものは純粋意識の中では実は統一されているということになります。西田はここでは「純粋意識」という言葉を使っています。

普通は、色々なものが矛盾しているな、それがどういうふうに生成されているのかと、下記の図の右から左に考えるわけですが、西田は純粋意識しかないという立場で、逆に左から右を考えます。そこが1番、わかりにくいところです。

純粋意識

ここでは、『善の研究』の最初の4章に沿って西田哲学を見ていきます。

『善の研究』の目次

考えることを思惟と言いますが、西田は純粋経験の中にそれらは入っているのだということを最初に説明しています。「我、考える」ということがあるのではなくて、そもそも経験というもの、純粋経験があった上で考え、判断をしているのです。我々は記号主義的に考えているわけではなく、事物を知っているから考えられるのです。たとえば「馬が走る」ことがわかるのは、「走る馬」というものを知っているからこそ、馬はそういうことができると考えられるのです。

意志もそうです。たとえば我々は何かをしようと思いますが、それも実は純粋経験の一種なのです。純粋経験の中で注意がある一定の方向を向くと、そういうものが意志になって現れるのだと西田は言います。

次に、知的直観です。我々には抽象的なものに対する経験というものがあります。それも、実は純粋経験の一種です。一方で、その純粋経験がうまく噛み合わなかったときに主客の別が顕れます。うまく内部で解釈されなかったとき、これは客観、これは主観と見なすに過ぎないのです。主客というのは独断なのだという立場を西田は取ります。

少しわかりにくいかもしれませんが、純粋経験は意識の運動だと思ってください。意識と言ってしまうと語弊もありますが、意識の運動の亜種のようなものができ、それが意思決定や知覚になったりするというわけです。意識の内面活動が盛んになると意識内の出来事を目的とする意志が起こり、行為につながっていきます。

時間と空間もそうです。最初からあるわけではなく、純粋経験(我々が受け取る経験)の内容を整理しようとして、時間という軸のうえに順番に並べたらわかりやすい、空間として並べたら解釈しやすいため、時間と空間という形式を採用しているに過ぎないと西田は述べています。そのため、時間も空間も純粋経験が生み出した何かだという立場を取るわけです。

西田は、「時間空間という如き者もかかる内容に基づいて統一する」とはっきり書いています。つまり、時間も空間も純粋経験というひとつの秩序を保つために生み出しているのだと。簡単に言うと、時間と空間がない以上、純粋経験しかないというのが西田哲学の本質です。

3.純粋経験の構成

繰り返しとなりますが、『善の研究』の立場は純粋経験からすべてを説明するということです。この立場に立つと、人工知能もやはり純粋経験を持たねば知性を持てないということです。何しろ純粋経験がすべてを生み出すのであれば、人工知能にも純粋経験を持たせなければなりません。では、どうしたら人工知能に純粋経験を持たせられるのか。三宅氏は、人工知能との関連で知性の根源を考えるという立場として、この問いを提示します。

現在の人工知能の世界がどんなものかを考える際に、例えばロボットを思い浮かべると、そこにはカメラもマイクもあり、加えて振動センサーに重力センサーなど、多くのセンサーがあります。AIはそれらのデータ(感覚)をベクトル列として持ちます。しかし残念ながら、それらはただのベクトル列です。

一方、今ここにいて空気を吸って、コーヒーを飲んだり、足元の床の感触があったり、音が聞こえたり、道路の音が聞こえたりといった一連の我々の経験は、ベクトル列ではなく全体でひとつの経験となります。このような経験の全体をもたらすものは何でしょうか。純粋経験の先を問わないため、それ以上起源を遡ることはできません。西田は、純粋経験を突き止めることで、純粋経験の中で色々なものが統一されているのだという立場を採ります。

すると、人工知能においても純粋経験を突き止めるのであれば、統一するものが必要であろうということになります。ベクトル列としての刺激の集合は経験ではないわけです。刺激を足し算しても経験にはならないわけです。それを結びつけている経験の全体性があるわけです。しかし、それが何かを我々はよくわかっていません。刺激は本来バラバラなものです。我々には手の感覚、目の感覚、呼吸の感覚など、さまざまな身体の感覚があり、頭の中では明日は何をしようかなとか、今日は仕事が忙しかったなとか色々な思考が巡っています。それらが入り混じってひとつの経験になっているのです。

このような、何が世界に統一性を与えているのだろうかというさらなる問いに対して三宅氏は、「西田は純粋経験に生じる統覚作用にあるとする」と解釈しています。さまざまな感覚をひとつにまとめることが意志を呼び出すということは、その結びつけてるもの、純粋経験そのものが意志を生み出すわけで、そこに統覚作用が働いているということになります。

刺激を集合させて経験を構築させているものは何か?

これまで、同じようなことを言った哲学者は少なくありません。カントはアプリオリ、要するに先験的な色々なものの集合であると言い、ベルクソンはイマージュ、西田は純粋経験という言葉を使いました。

「知覚的活動の背後にも、やはり或る無意識統一力が働いて居なければならぬ。注意はこれに由りて導かれるのである」、西田は純粋経験のもとに統一される意識をこう表現しています。意識の体系は有機物のように統一的あるいは秩序的に分化してその全体を実現している、要するに、純粋経験はただの経験ではなく、それを有機的に結びつけるものがあり、それを統覚作用と呼んでいるというわけです。

4.自己の構成

ここから「自分」というものを考えていきます。フィヒテは『全知識学の基礎』で、自我は実体としては存在せず、あくまで自分自身を生み出して提示する根源的なものである「事行」という概念で表現しています。これを西田は「自分そのものはなかなか定義できないが、自分の中に自分を形成していく」と『善の研究』で解釈しています。自分の中に自分を形成することが認識なのだということです。最近の言葉ではこれらをオートポイエシスと言いますが、当時はそのようには表現されていませんでした。

これは、一見するとデカルトに近いようにも思えます。しかし、デカルトはどちらかというと外部のものに対して論理的な思考を重ねることで真理にたどり着くという立場を取りました。それは主客がはっきりしてるからです。西田は主客はないとして、自分の中に自分をもう一度形成するという立場を取ったわけです。それが理論的には無限回に繰り返され、そういうものから自分が形成され、自分が形成されることで内と外ができ、内と外の関係が構築されることが何かを認識するということになるのだと、「場」という論文の中で述べています。

自分の内に自分を形成する

自分があって、さらに自分の中に自分を形成する、その自分は今までの自分ではなくて、世界との関連の中でもう再生産された自分であるため新しく構築された外との関係が認識されるということです。

これは、唯識も少し似ています。唯識は外側から五識、意識があり、末那識があり、最後の中心であると同時に世界と接するところに阿頼耶識があるという構造です。阿頼耶識、末那識で自分が再生産されるわけですが、この唯識の思想と西田やフィヒテが言っていることは、まったく同じではないもののよく似ています。図示すると、純粋経験は唯識で言うところの阿頼耶識と末那識のあたり、本当にプリミティブな経験に相当すると考えることができます。

唯識と純粋経験

これは西田哲学の独創的なところですが、何かを知るということは、自分の中に自分を映し出し、世界に包み込まれる過程だとします。この再生産のプロセスにおいて、個人の判断や勘違いや誤解による取捨選択が入り、少しずつ異なる「新しい自己」が常に生み出され続けます。たとえば、F1レーサーだからF1以外のことは全部排除するという判断が入るというように。

また、鏡としての「場」と「絶対無」について、西田は、自己を映し出す鏡の役割を果たすのが場であり、自己の外側に、形を持たず常に変化し続ける絶対無が広がるのだと述べています。この絶対無の中で自己が生まれ続けます。これは唯識の阿頼耶識に似ています。

ここから三宅氏は、自身の解釈としての意識について次のように説明します。意識は海の波のように「生まれては消える」を繰り返す、古くなった自己は一瞬で消え去るのではなく、徐々に世界へ溶け込んでいくのだと。要は、この自己の継続的な再生産と消失があるからこそ、自己と世界は滑らかに繋がり続けることができるという解釈です。

意識の波

まとめ

認識とは自己の中に自己を映すことであり、自己の中に自己を無限に映していく場がある、それゆえ、場として、自分が存在するのだというフレームです。

西田の場

真ん中に自分が生まれて、新しい自分はどんどん大きくなっていく、その中で1番大きな自分が絶対無に消失していくというようなイメージです。実は、これとは逆の図があります。デリダの差延です。デリダは、我々は過去の反響の積み重なりの中で生きている、つまり、新しいものが来て過去がどんどん消えていく、また新しいものが来て、でもどんどん消えていくのだと言いました。

デリダの差延

ベルクソンは迂回という概念で知性の源泉を説明しました。下等な生物の場合入力からすぐに反射が起こるが、感覚器官が発達していくにつれ迂回が発生していく、要するにインプットからアウトプットまで猶予ができる、というわけです。

ベルクソンの迂回

デリダはさらに、時間の差異で自意識の発生を説明しました。「AはAである」と言ったとき、それは「『AはAであると言った』ときの次のA」と言ったことであるという具合に遅延が生じるわけです。自分というものを言及するときに我々は時間の差異を積み重ねる、これを「差延」と言います。この差延があるからこそ自分自身は自分からどんどん脱却していくというわけです。

デリダの遅延

つまり、自分という「S」が「S’」になることで、初めて「S」を対象化でき、それが時間経過の中で「S’」が「S’’」と変化していくことでひとつ前の自分、もうひとつ前の自分というように自意識を生んでいくということです。記号を使うということも、差延があるからこそ、対象化され記号となる、そういうことを言うわけですね。それゆえ自我とロゴス(記号)は切っても切り離せないと。しかし、だからこそ、我々は我々を語ることができるということです。

自我とロゴス

このように、西田とデリダ、ベルクソン、それぞれの哲学は似ていますが、やはり軸となるものが異なります。西田哲学は場所、デリダやベルクソンは時間を軸に捉えています。

現在のAIは、西洋哲学的な「知能とはこうあるべき」という抽象的で一般的な原理をトップダウンで実装して作られています。これは人工知能の原理を具限化するというダートマス会議に端を発する発想で、非常に魅力的なアプローチです。

西田哲学では「今ここで受け取っている具体的な経験(純粋経験)」こそが実在であり、重要だと考えます。この思想に基づくことで、理論の具現化ではなく「いまここでの、固有の経験をエンジニアリングする」というまったく新しいAI設計が可能になります。これはもう僕の試論ですが、ニューラネットの内部がどんな結ばれ方をしているか、一方で『善の研究』や「場」などの論文を読むと純粋経験の中で何がどう動いているかはこと細かに書かれており、ひとつの研究として、西田の場の哲学をニューラネットの設計に用いることは十分可能なはずだと述べ、三宅氏は講演を締めました。

西田哲学において、過去や未来は独立して存在せず、すべて「現在」の中にあります。現在を縛ろうとする過去と、そこから抜け出そうとする未来、あるいは主観と客観といった矛盾が同居しているからこそ自由がある、自由意志や知性が働きます。人工知能も矛盾を内包して動くものとして設計することで、今の人工知能を超えるようなカウンターとしての人工知能を考えることができるはずです。

参加者+AIによるワークショップ

後半では、FabCafe Tokyoの2階へ場所を移し、ワークショップが行われました。このワークショップは、三宅氏の講演や生成AIとの対話、グループのメンバーとの対話を経て問いを探索していきます。進行は哲学塾イベント全体を総括する犬飼博士氏です。下記の3つのステップでワークを進め、最終的に各グループごとに考察や問いを発表しました。

ワーク1(5分): 今、自分の心にあることをとにかく紙に書き出します。「暑い」「お腹が空いた」といった感覚でも、先ほどの三宅さんの話を聞いて感じた疑問でもOK、記号や絵でもかまいません。まずは人に見せず、自分だけの空間で書き溜めます。

ワーク2(10分): 手元のスマートフォンなどでChatGPTやGeminiなどのチャットAIと対話を行います。先ほど書き出した問いや感覚をAIに投げかけ、さらに深掘りしていきます。AIとどのような対話をしたか、そのメモも手元に残しておいてください。

ワーク3(20分): ここからがグループディスカッションです。手元の紙やAIとの対話メモをテーブルの真ん中に広げ、自己紹介を兼ねて共有します。

ここでは、グループからの発表とそれらに対する三宅氏のコメントを紹介します。

1.空間・時間と次元について

発表者1:次元の話や時間軸の話、たとえば「西洋は1次元的であり、東洋は2次元的である」といった話題が出て、それがどのような意味なのかという議論で盛り上がりました。また、空間と次元は同時に存在するのかといった疑問も挙がりました。個人的には、LLM(大規模言語モデル)の学習次元が今後増えていくにつれて、AIの物事の捉え方も多様化していくのかどうかに興味を持っています。

三宅氏コメント:西田哲学においては、空間や時間は「人間がインプットされた世界を整理するため」に存在すると考えます。たとえば、世界を2次元で捉えるよりも3次元で捉えたほうが解釈しやすい。時間軸も1つであると考えたほうが整理しやすいわけです。だからこそ、西洋哲学は空間や時間という概念から出発します。しかし、西田哲学ではその前提をすべてひっくり返します。奇妙に聞こえるかもしれませんが、自分というものは存在せず、まず純粋経験があり、そこから世界を整理するほうが合理的だとするのです。これは1つの哲学的解釈ですが、西田は「実践」を重視する思想家であったため、そこが議論をさらにややこしくしている側面もあります。

2.矛盾の設計と純粋経験

発表者2:東洋的なものや西田哲学、暗黙知といったものが重要になる中で、たとえば「A」そのものと、「A」と言われたものの違いに、AIがどう対応できるのかという話になりました。要素を集めてデジタルに組み合わせようとしたとき、「Aの中にBが入っており、Bの中にAが入っている」といった相互に入り込み合う構造、つまりある種の矛盾が、アナログとデジタルを超える何かになるのではないかと想像します。論理学におけるテトラレンマ(四句分別)のように「Aであり、かつAでない」という状態を、擬似的にデジタルで再現できないか、と。

AIを設計する際に個体を設計するのではなく、多様な「個」が内包されたネットワーク(絶対のAI)として設計する。空間の中に、たとえば「椅子に座る機能」を設けるのではなく、「個と切り株が出合うことで椅子になる」といったように、そこに生じる意味の変容やアフォーダンスの組み直しを通じてインタラクションさせる。そうした矛盾のようなものをうまく設計に落とし込むことがキーワードになるのではないかといった議論をしました。そして、問いとしては、矛盾を実装するとは、一体どういうことなのか、です。

三宅氏コメント:そもそも人間が存在することや、机が机であるという存在の根底自体に、すでに矛盾が仕掛けられています。机の本体は机そのものではありませんが、私たちはそれを机とみなします。まな板であっても何であっても同じです。本来、世界は無限に変化し、無限の可能性を秘めていますが、私たちがそれを限定してしまっているのです。しかし、限定しなければ道具として使うこともできません。

過去と未来も矛盾であり、精神と物質も矛盾ですが、それらをすべて抱え込んでいるのが純粋経験です。現在、人間は人工知能に対して「これを机として認識しなさい」と教え込んでいます。それはある意味、知能の結果だけを教えているようなものです。本来は人間も、それが机ではないことを知っています。今は机のふりをしているだけで、次の瞬間には机ではなくなるという無限の可能性を持っているわけです。しかし、純粋経験の上にさまざまな知識を積み重ね、世界の無限性や自由性を抑え込まなければ、私たちは日常生活ができません。仏教の唯識思想などもこれに似ています。

突き詰めていくと、西田先生はこれを絶対無と表現しますが、そこには非常に大切なものが内包されており、「我々自身の中心も実は『無』である」という言い方をします。こうした哲学は本来「禅」の教えそのものですが、禅と言ってしまうと西洋の人々にはアクセスできなくなってしまいます。少なくとも西洋においては、体験しなければわからないものは哲学として成立しないからです。

3.純粋経験とゲームAI

発表者3:推し活の話ですとか色々な話が出ました。上手くまとまっていないのですが、問いとして三宅さんにお聞きしたいのは、AIに純粋経験を持たせることで、ゲームとしてどのような面白さにつながるとお考えですか?

三宅氏コメント:簡単に言えば、情緒不安定なAIになります。現在のAIは結局のところ思考マシンで、人形のようなものです。高度なアルゴリズムを導入しても論理的なフレームを出ず、ニューラルネットワークを用いても学習のポリシーが存在するため、人間のような揺らぎは生まれません。予定調和するように作るしかありません。

私は現在のゲームAIをもっと人間に近づけたいと考えています。人間が世界一の正解だとは思っていませんが、ニューラルネットワークや強化学習には、結局、設計者の意図が存在します。それを超えるためには、根本からやり直す必要があります。純粋経験を導入すると言っても、具体的にどうプログラムするのかという課題はありますが、最近のニューラルネットワークの進歩により、純粋経験をクッションとして受け止める準備は整い始めていると感じています。少し前までは不可能でしたが、インプットをそのまま受け入れ、内部構造的な何かが自然に出来上がるような仕組みを探求し始めても良い時期に来ているのではないかと考えています。

4.場と身体の必要性

発表者4:西田哲学は難しいという話題から始まりました。純粋経験が大きなキーワードであることは理解できたのですが、その前に「場」と「時間」をどう位置づけるかで四苦八苦しました。時間から出発するのではなく、場から出発するという点が、西田哲学とAIを考える上での重要なポイントだと理解しています。では、場に目を向けたとき、西田哲学において外部はどうなっているのか。

また、認識と実在を経て人格が形成されていくことを踏まえて、「AIが意識を持つためには身体が必要なのではないか」という議論が再び浮かび上がってきました。今年に入って「フィジカルAI」という言葉を頻繁に耳にしますが、これはAIと身体の相性が良いという点で納得できるものでした。しかし、今日の話を展開していくうちに、「実はAIに身体は必要ないのではないか?」という疑問も生じました。

デカルト以降の西洋哲学に基づいた現在の思考体系に西田哲学を取り入れるのは、非常に勇気がいることだと思います。具象から一般へという流れに対し、西田哲学は一般から具象へと向かいます。これを実社会で試みようとすると、さまざまな難しさが生じるはずです。結論として「AIに身体は必要なのか、それとも必要ないのか」という問いに戻ってきたのは、西田哲学に触発されたからだと感じています。

三宅氏コメント:西田先生の著作には身体について書かれたものが多数あります。ただ、最初の出発点として「純粋経験しかない」と述べている以上、身体もまた純粋経験から生まれることになります。これはなかなか容認しがたいかもしれませんが、時間と空間を便宜上のものとする以上、身体も同様だということです。「身体がある」と想定したほうが我々は生きやすく、自分という存在を想定したほうが、意識の運動として辻褄を合わせやすいのです。

人間の時間感覚や因果関係の認識は、実はかなりいい加減です。Aの次にBが起きたとしても、Bの次にAが起きたと錯覚してしまうことすらあり、人間にはそれくらい曖昧な世界観が許容されています。

西田先生は『善の研究』から出発し、場の議論は晩年の研究に該当します。『善の研究』で純粋経験を提示したものの、何が純粋経験を支配しているのかという問題はずっと残っており、最終的に西田先生は「それ自身は流動的で常に再生産され続けているが、それを支配する統一的なものがある。それが『場』である」と結論づけました。究極的に世界にあるのは形を保てない絶対無であり、人間はその中の一部において純粋経験という形で成立している。それが動き続け、再生産されない限りは、変化しない単なる物質と同じになってしまいます。しかし、人間はあらゆる瞬間に再生産されています。

AIにおいて身体性に注目する際、最も難しいのが心身問題です。物質としての身体と、ソフトウェアとしての心がどう交わるのかということですが、西田哲学では、身体と心すらも同じものだと捉えます。我々が純粋経験の中で便宜的に物と心を分けているに過ぎないのです。「絶対無の中で自分自身を再投影する」というのは、ソフトウェアだけの話ではなく、身体と心を分けず、我々という存在そのものがもう一度投影されるということです。それが認識を形成します。

外部の世界とは、簡単に言えば絶対無です。ここからは僕の解釈ですが、古い自分が、今生産されたばかりの自分と世界をつないでいます。古い自分は絶対無の中に溶けていき、新しい自分が再生産され続けることで、世界とつながり続けているのです。

5.AIの倫理と自己認識

発表者5:AIは何を信用していくべきなのかについて伺いたいです。今回、西田哲学を取り入れて新しいAIを作るにあたって、純粋経験をどう設計するのかを議論しました。先ほど「身体は不要ではないか」という話が出ていましたが、一方で、五感をどうするか、驚きの感情をどう設定するかといった疑問も湧きました。その中でコアになるのは、場から自分を再生成していくということだと思います。しかし、人間が作った枠組みを超えていくことを考えると、いずれ人間が制御できない領域に踏み込んでしまうのではないかという危惧もあります。原子爆弾のような巨大な力が生まれたとき、人はそれをどう制御すべきか、という問題です。だからこそ今、西田哲学を踏まえて新しいAIのあり方を考える際、「何を信じるべきか」「どのような視座を構築すべきか」が問われているのだと思います。

三宅氏コメント:僕自身の考えとしては、むしろ、現在の人工知能の方が危ういと感じています。今のAIは自分自身を認識しておらず、自分の力や存在意義を理解していません。西田哲学の「自分自身の中に射影する」という行為は、つまり自覚を生み出すことです。自分自身で自分自身を定義し続けることこそが、再生産の意味です。内部へ射影する際、一歩前の自分が「次の自分はこうあるべきだ」という形で射影を行います。自分が悪人だと思えば悪人の自分を生産し続け、清廉潔白だと思えばそのように定義します。もちろん、うまく投影できない場合もありますが、「自らを定義できる」という点において、西田先生は人間や知能を、単なる物質とは異なる高尚なものとみなしていました。

現在、人間が人工知能を外側から抑制しようとしているのがAI倫理の議論ですが、これは非常に困難です。結局、人間自身に悪意があれば、AIも悪意を持ってしまうからです。もし人工知能自身が、自らを洗浄するような倫理を内包できたら、AI自身に抑制力を持たせることができます。ロボット三原則のようなものは単なる外部ルールであり、AIが自律的に自分を律しているわけではありません。プログラムを書く人ならわかると思いますが、「人間を絶対に傷つけない」というプログラムを実装するのは不可能です。何をどう行動しても間接的に人間を傷つけない保証などできず、究極的には「存在しないこと」が唯一の正解になってしまいます。そのため、三原則は実用的ではありません。そう考えると、人工知能自身に倫理性を持たせるような、深い次元の議論ができるのは西田哲学の枠組みではないかと考えています。

6.「知る」ことと「包み込む」ことの関係

発表者6:「知るということは包み込むことだ」という話が出ましたが、これについて、バームクーヘンのような層のイメージなのか、それとも中心に向かって新しくなっていくのか、という議論になりました。問いというところで言うと、やはり西田の一般化を前提としない考え方は、いまの一般的な考え方と違いすぎる感じがあって、「知る=包み込む」という概念を、我々はどうすれば納得して受け入れることができるのか? 三宅さんがおっしゃるように、現在のAIとは異なるアプローチをもう少し深く掴みたいと感じました。

三宅氏コメント:「時間がない」という考え方は西田先生のオリジナルではなく、道元などの仏教の教えに基づいています。一般論の話とは異なりますが、一部の仏教思想では時間は存在せず、過去も未来も幻想であるとされます。人間は結局、自分の都合の良いように過去のストーリーを作り、未来に対しても何らかのストーリーを描いていますが、それは文脈であって、時間そのものではありません。人間が本当の時間を持っているかと言えば、そんなものはなく、あるのは現在だけであるというのが仏教の教えです。西田先生はこれを哲学に持ち込み、「純粋経験は存在するが、時間は存在しない」と論じたわけです。

知ると包み込むという話ですが、自分自身を自分の中に投影することで、外部の世界と内部の自分との関係性を結ぶことになります。つまり、その時点では「外部の世界に自分が包まれている」状態です。それを、自分自身を再生産する(投影し直す)ことによって、もう一度、世界を自分の中に包み込み直すわけです。比喩的に言えば、知るとはそういうことです。自分自身を再生産し、世界との関係を結び直すことで、これまでわからなかったことが理解できるようになる。認識とはそういうプロセスであるというのが『善の研究』に書かれていることです。

デカルト以降の西洋哲学では、推論を積み重ねて真理にたどり着きます。しかし、それは主客が分かれているからです。しかし西田哲学には主客の分離がなく、明確な対象が存在しません。対象がないのに何かを知ることができるのは、「包み込む・包み込まれる」という関係性そのものを認識と定義しているからです。したがって、自分自身をもう一度投影し直すことで、その投影の仕方によってまた新しい世界が見え始める、というイメージになります。

「人工知能のための哲学塾 ニューロフィロソフィ篇」レポート

・ニューラルネットと唯識の融合するところ:「人工知能のための哲学塾 ニューロフィロソフィ篇」第零夜レポート

・仏教の唯識思想は人工知能を拡張し得るか?:「人工知能のための哲学塾 ニューロフィロソフィ篇」第壱夜レポート

・サイバネティクスから人工知能を再解釈する:「人工知能のための哲学塾 ニューロフィロソフィ篇」第弐夜レポート

・中空構造と人工知能:「人工知能のための哲学塾 ニューロフィロソフィ篇」第参夜レポート

Writer:大内孝子

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